掛井五郎さんからのメッセージ−「鎮魂歌」−
『先生達が、友人達が生きていた時は、私にも仕事が出来た。しかし、一人になって、一人では何も出来ないことを思い知った。
少年の日、茶畑をベッドにして、両手を枕にし、空を見上げていた。−雲が動いた−川で一日中、鮎を追い廻した。山野にかけ入り、植物、昆蟲採集に熱中した。野生の茱萸、山苺、山桃の実をむさぼり、味と香りが口一杯に拡散し、脳を刺激した。夏の日、友人と誘い合い、海に出掛けた。帰り道、西瓜畑に進入して、一番見事な西瓜を飽食する。その後、時代は戦火に包まれた。そして、敗戦した。
今日、この世界は、この日本は、「人間」を何処へやってしまったのか。人間であろうと、必死で生きている人々の悲愴な叫び声しか聞こえてこない。どこかで、「死者」達の細い声がする。』−2005年春ー美しい故郷と美しい母
私は静岡の茶畑が広がる美しい故郷で生まれ育った。そこには富士山や南アルプスがあって、大井川や天竜川が集まる駿河湾もある。山の幸と海の幸に恵まれた、芸術家が育つのに最上の場所だった。私の母は美しい人だった。母の料理も特別のもので美味しかった。家族には、5人の男の子と5人の女の子の兄妹がいて、ハイカラな家庭だった。兄たちは油絵を描き、西洋音楽に親しんだ。しかし戦争が始まり、4人の兄たちは戦死してしまった。芸術家は「個人」の表現である
1964年にブラジルのサンパウロビエンナーレに出品したときに、現地で、或る日本人彫刻家が羽織・袴を着て扇子を持ってオープニングパーティに出席していた。それは私にとって目にしたくない光景だった。「日本の芸術家」ってことを全面に出していることが嫌だった。本来、芸術家は国家・宗教・民族という枠組みから自立していないといけない。つまり「個人」として表現していないといけない。ピカソだって「スペイン人」の芸術家というわけではないんだ。国家とか民族からもっと自由になって表現しなければ、現代作家とはいえない。自分の存在を知るための創作活動
芸術家は「仕事」することによって芸術家であることを完結する。でも三島由紀夫も太宰治も中途半ばで自殺してしまった。過去の芸術家は未熟だったと思う。芸術家が成熟するには仕事によって生きること。私の場合、作品を創ることは自分の存在を知るための創作、そして自分がどれだけ無知で救いがたいものかを知るためだ。芸術家に必要なこと
芸術家は有名になってはいけない。勲章ももらってはいけない。でもお金は必要。それは次の作品を創るため。だけど、無名で勲章をもらわずにいつづけるのは大変なんだ。だからパトロンが作家を助けることは重要だ。天空にも昇る、浮遊した彫刻へ
新潟中越地震の際に、道路が崩れ落ちて車中に閉じこめられ、三日後に救出された小さな男の子「悠太君」を見たときには衝撃的だった。その子が瓦礫の中で浮いていたように見えた。私はこれまで大地に根ざした彫刻を作ってきたけれど、これこそ、空間に存在する「彫刻」それ自体である。だから空中に浮遊する彫刻を作っていきたい。鳥のような、そう、人間が鳥に進化している彫刻作品を。
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